かつて、命と引き換えに、あなたがいまこうして声を上げられる権利を勝ち取った人たちがいた。
その権利を、あなたはいま何に使っている?
私はもともと、体制を信じていた。
この話の出発点は信頼だった。私は陳情の手順に従い、一歩ずつ進んだ。手がかりさえはっきりしていれば、システムは自ずと動くと信じていた。
負けるのは構わない。競争なのだから、勝ち負けはある。
ただ、自分がどう負けたのかを知りたかった。
その問いを追ううちに、私は 18-1-3 にぶつかった。
そこから、すべてが変わった。
結局、私が学んだのは、体制が壊れているということではなかった。学んだのは、体制は実によく機能している、ということだ。ただ、体制が仕えている相手が、私の思っていた善良な市民ではなかった。
台湾の司法は不公正だ、と誰かが言うたびに
台湾の司法は不公正だ、と誰かが言うたびに、何の話をしているのか私にはわかる。
誰が収監され、誰が収監されなかったか。誰の裁判が何年も引き延ばされ、誰の判決がわけのわからないものだったか。そうした話には名前があり、顔がある。カメラの前で無実を叫ぶ人がいて、密着する記者がいて、ネットで署名を集める人たちがいる。
あれは芝居だ。怒る前に聞いてほしい。あの理不尽が作り話だと言うつもりはない。あの理不尽には舞台がある、と言っているのだ。
本当の司法の不公正には、舞台がない。それは手続きのどこかの関門で、静かに、合法的に起きる。一人の人間から負ける資格すら奪う。そしてその人は、自分の力が足りなかったのだと思い込み、家に帰って自分を責め、二度とその話を口にしなくなる。
不公正は、たいてい判決の中にはない。たいていは、土俵に上がる前に、あなたのほうが片づけられている。
自分が何を知らないのかを、あなたは知らない
実に優雅に設計された罠がある。
あなたに嘘をつく必要すらない。ルールを知っているとあなたに思わせておいて、あなたから見えない場所で、存在すら知らない別のルールを使って止めればいい。
あなたは台湾の政府情報公開法を知っている。準備は万全だと思っている。
だが、18-1-3 という条文があることは知らない。
向こうは、あなたが知らないことを知っている。
だから門前払いを食らったとき、手続きは完全に合法で、書類はそろっていて、誰ひとり何も間違えていない。あなたは止められたことにすら気づかない。資格が足りなかったのだと思い込んで、手を引いて去っていくだけだ。
ここで二つの条文を解説しておく。罠のからくりは、まさにそこにあるからだ。
政府情報公開法第18条第1項第3号(以下 18-1-3):政府は「政府機関が意思決定を行う前の、内部部署による起案その他の準備作業」であることを理由に、あなたの情報公開請求を拒否できる。この条文の設計自体に問題はない。公開すべきでない情報は確かにある。
問題は、これがいくらでも当てはめられることだ。点数もない。理由もない。反論できる具体的な中身もない。条文というハンコを押されたら、それで退場だ。しかも退場の理由は「制度がダメだと言った」であって、「審査員がダメだと言った」ですらない。だから挫折感はぶつける先を見つけられず、自分を責めるしかなくなる。自分の問題だと思い込む。
だが立法者は、この条文が濫用されることを知っていた。だから第18条第2項(18-2)がある。たとえ 18-1-3 の拒否要件に当たっても、公開による公益がプライバシーの損害を上回るなら、機関は公開「しなければならない」。
「しなければならない」であって、「することができる」ではない。検討してもいい、ではない。義務だ。
18-2 は、18-1-3 の濫用を塞ぐためにわざわざ設けられた上書き条項だ。この条項があること自体が、立法者が穴の位置を知っていた証拠である。
さらに肝心なのは、公共資源の配分が絡む案件では、18-2 はほぼ自動的に成立するということだ。納税者の資源がどう配分され、誰に渡り、なぜその相手だったのか。それを公開する価値は、民主主義の基本的な定義からして、いわゆる業務上の秘密のどれよりもすでに大きい。
言い換えれば、公共資源の配分をめぐる案件で機関が 18-1-3 を持ち出した時点で、その機関は 18-2 の論理戦にはもう負けている。あなたが知らないほうに賭けているだけだ。
なぜなら、その賭けにはほぼ毎回勝てるからだ。勝てなかった数回も、無数の陳情者を、向こうが手を離すまで引きずり回して終わらせる。この勝負の要は、勝つことではない。「負けないこと」だ。
この罠の巧妙さは、悪人を必要としないところにある。必要なのは情報の非対称性だけ。あとは、ルールを知っている人間を扉の向こう側に立たせておけばいい。
抜け穴その二:民主主義の殻、台本どおりの中身
一つ目の抜け穴が、あなたを土俵に上げないことだとすれば、二つ目の抜け穴は、土俵に上がっても勝たせないことだ。
ルールは公告に白黒はっきり書いてある。あなたは書類をそろえ、書式に従い、時間どおりに出席し、プレゼンを最後までやり切る。
そして、公告のどこにも書かれていない基準で落とされる。
これを「矢を放ってから的を描く」という。後出しじゃんけんだ。的は事後に描かれるのだから、あなたの矢が当たることは永遠にない。どれだけ準備を尽くそうと、存在すら知らない基準に向けて準備などできるはずがない。
もう一つの構造も見ておこう。審査員が居並ぶ審査会だ。委員の数は十分そろっていて、いかにも民主的で、厳格で、公正に見える。
だが委員の存在意義は、判断することではない。結果が判断を経たように見せることだ。
場の空気を決める係がいる。しかるべきタイミングでうなずく係がいる。出席していること自体が正当性の源泉になっていて、ほかに何もしなくていい人もいる。
ああいう会議を見たことがあるだろう。議案が出ると、議長がぐるりと見回す。
「ご賛成の方は?」
「ご反対の方は?」
反対する者はいない。
これを合意とは呼ばない。台本を最後まで読み終えた、と呼ぶ。
誰も法を犯していない。手続きは完璧で、委員は出席し、結果には記録が残っている。
あなたは負けた。だが、異議を申し立てる足がかりはどこにもない。
負け方にすら、文句のつけようがない。
弱者を守る制度には、弱者がどこにいるのか見えていない
どの制度も、設計の出発点は弱者を守ることにある。政府情報公開は、あなたの知る権利を守る。審査委員制度は、手続きの公正さを守る。陳情の窓口は、あなたが訴える権利を守る。
だが、これらの保護には共通の盲点がある。守られるのは、保護の仕組みを使いこなせる人間だけなのだ。
情報公開法を調べられて初めて、その法律に守られる。18-1-3 の存在を知って初めて、それに備えられる。審査の構造の問題を見抜く力があって初めて、異議を唱えられる。
本当の弱者には、そんな力はない。どこかの関門で止められ、自分の問題だと思い込み、統計の数字の中に消えていく。誰の政策提言レポートにも、一度として現れることはない。
資源が実際にどこへ流れたかは、嘘をつかない。
資源がどこへ行くかを見ればいい。どの申請には返事が来て、どの申請が梨のつぶてになったかを見ればいい。その地図は、どんな政策宣言よりも正直だ。制度が本当は誰に仕えているのかを教えてくれる。
その恩恵を受けている人は、たいてい、それを最も必要としている人ではない。
正直に言えば
誰が本当に不当な目に遭ったのかを判定する資格は、私にはない。
私はただのマーケターだ。たまたまバックアップを取る習慣があり、たまたまどこかの関門で静かに飲み込まれずに済み、たまたま振り返ってあの穴の形をはっきり見ることができた。
私は抜け穴の形を描写するだけだ。身に覚えのある方は、どうぞご自由に。
どの関門でも一度もログアウトさせられたことがないなら、それは結構なことだ。
自分の力が足りなかったのだと、思ったことがあるなら。たしかにそうかもしれない
そうではないかもしれない。
それとも、あの 18-1-3 の存在を知らなかっただけか?
かつて、命と引き換えに、あなたがいまこうして声を上げられる権利を勝ち取った人たちがいた。
私はその権利を使って、これらの穴の位置を記録している。
次の誰かが、同じ場所から落ちずに済むように。
あなたはどう思う? 意味があると思うか? 訴えを握りつぶされたことはあるか?
本稿の初出は方格子(Vocus)、2026.05.01。